2004年12月05日(日) 旧暦 二〇〇四年一〇月二四日 [今日は何の日?]
教学入門―3.一念三千と十界互具
3.一念三千と十界互具
ここでは成仏の大法である「一念三千」の法理を学び、現実に万人成仏の道を開いた日蓮大聖人の仏法への理解を深めます。
1 一念三千の構成
日蓮大聖人が、末法万人の成仏のために南無妙法蓮華経の御本尊を御図顕された理論的支柱の一つとして、一念三千の法理があります。
一念三千とは、法華経に説かれている一切衆生の成仏の原理を、中国の天台大師が『摩河止観』のなかで、体系化して説明したものです。
「一念」とは、私たちの瞬間瞬間の生命のことです。この一念に、すべての現象、
働きを意味する三千の諸法が具わっていることを説いたのが一念三千の法理です。
「三千」とは、十界互具と十如是、そして三世間を合わせて総合したものです(百界×十如是×三世間=三千)。十界と十如是と三世間という、
それぞれ異なった角度から生命をとらえた法理を総合し、私たちの生命の全体観を示したものです。
十界互具
十界は、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の10種類の生命の境涯のことです。
これら10種の生命境涯は、十界のいずれの衆生にも欠けることなく具わっています。すなわち、人界の衆生にも、地獄界の衆生にも、
菩薩界の衆生にも、それぞれ十界の生命が具わっています。このように、十界のおのおのの生命に十界が具していることを「十界互具」といいます。
一切衆生の成仏を示す
十界互異の法理
法華経以外の諸経では、十界は相互に隔てられた全く別々の世界として固定化されてとらえられていました。その考え方を根本的に乗り越え、
十界のいかなる衆生も仏界を顕し成仏する可能性をもっているとの変革の可能性を説いたのが、法華経の十界互具です。
「三千」の数量を構成する要素として見れば、十界互具は、十界のおのおのに十界が具わるので「百界」と示されます。
十如是
次に十如是とは、十界の衆生に共通して具わる、生命の10種類の側面を示したものです。地獄界であれ仏界であれ、十界のいかなる衆生・
環境も等しく十如是を具えています。
私たちが、日々読詞している法華経方便品第2に、次のように示されていま
「唯だ仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂る諸法の、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・
如是報・如是本末究竟等なり」(法華経108P)
個々に説明すると、如是相の「相」とは、表面に現れた姿、形です。
「性」とは、内にある性質・性分です。
「体」とは、主体または本体。
この相・性・体の三如是は、現象の本体部分です。そして、以下の各如是が、機能面を表しています。
「力」とは、内在している力、潜在している能力。
「作」とは、内在している力が外界に現れた作用。
いわば「力」と「作」は、潜在と顕在の関係です。次の因縁果報は生命が変化していく因果の法則を示しています。
「因」とは、結果を招く、変化の直接的原因。
「縁」とは、結果を招く、変化の補助的原因。
「果」とは、因と縁が和合(結合)して生じた直接的な結果。
「報」とは、その結果が形に現れたもの。
そして、「本末究竟等」とは、相から報までの九如是が十界のいずれかとして一貫性を保っていることです。
この十如是は、地獄界なら地獄界の十如是として、仏界なら仏界の十如是として、それぞれの異なった働きをあらわしています。すなわち、
十如是のそれぞれの在り方は、十界それぞれの生命境涯に応じて異なります。
三世間
次に三世間とは、五陰(ごおん)世間、衆生世間、国土世間の三つをいいます。「世間」とは差異・差別のことで、十界の差異は、
この三つの次元に現れます。
五陰世間の五陰とは、色陰・受陰・想陰・行陰・識陰のことで衆生の生命を構成する五つの要素をいいます。五陰の「陰」とは、〝集まり″
の意味です。「五陰仮和合」といって、一切の衆生はこの五陰が集まって成立しているとされます。
「色陰」とは、生命体を構成する物質的側面。
「受陰」とは、知覚器官である六根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)を通して外界を受け入れる心的作用。
「想陰」とは、受け入れたものを心に想い浮かべる働き。
「行陰」とは、想陰に基づいて想い浮かべたものを、行為へと結びつける心の作用、すなわち意思や欲求の働き。
「識陰」とは、色陰・受陰・想陰・行陰の作用を統括する根本の心的活動、すなわち認識・識別する心。
要するに、衆生の心身が五陰であり、五陰の働きが十界によって異なることを「五陰世間」といいます。
この五陰が一体となっているのが、それぞれの衆生であり、「衆生世間」とは衆生にも十界の差異があることをいいます。
そして、衆生の住する国土・環境にも、衆生の生命境涯に応じて十界の差異が現れることを「国土世間」といいます。
以上の十界互具・十如是・三世間の法理を総合して成立したのが一念三千の法門です。この一念三千の法門によって生命が総合的に把握され、
すべての衆生が等しく成仏できることが明らかになったのです。
2 一念と三千
次は、「一念」と「三千」の関係について学びます。
大聖人は御書のなかで、一念三千について示した天台大師の『摩珂止観(まかしかん)』を引用されています。この『摩河止観』
のなかに次のようにあります。
「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千・
一念の心に在り若し心無んば而己介爾も心有れば即ち三千を具す」
(通解)「一瞬の心に十界が具わっている。それぞれの一界に、また十界が具わっているので百界となる。
そしてその一界に三十種の世間が具わっているので、百界には、すなわち三千種の世間が具わっている。この三千の諸法は、一念の心にある。
もし心が無ければそれまでのことであるが、たとえ僅かでも心が有るならば、そこに三千の諸法が具わるのである」
ここで、わずかでも私たちの「一念の心」があるところ、そこに「三千の諸法」が具わるということが示されています。
生命の無限の可能性を示す
一念三千の法理
「三千の諸法」とは、先ほどの三千の構成で示された、全宇宙に起こりうる、あらゆる現象です。『摩珂止観』では、
私たちの生命にこの三千がおさまることが示されています。言い換えれば、私たちの一瞬一瞬の生命に全宇宙を具しているということになります。
反対に、自身の一念は、三千の諸法に〝あまねく、広くいきわたる″ことも示されています。すなわち、一念三千は、
一瞬の生命に全宇宙が具わっているという面と、一瞬の生命が、全宇宙にまでいきわたっているという面の両側面をもっているのです。
3 凡夫成仏・即身成仏・一生成仏
一念三千は、凡夫成仏の原理でもあります。
一念三千の中核の原理となるのが「十界互具」です。
大聖人は「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(189P)、「一念三千は九界即仏界・仏界即九界と談ず」(256P)と仰せです。
この十界互具の法理の眼目は、九界の衆生の生命に仏界が具わること、
すなわち九界の衆生がすべて平等に仏に成ることができることを示すところにあります。仏界を具えない九界もありませんし、九界を離れた、
仏界だけの仏もありえません。
「凡夫」とは、普通の人間のことです。十界互具であれば、普通の人間の身に、仏の境涯を開いていけます。これを「凡夫即極」とも、「凡夫即仏」
ともいいます。
大聖人は「凡夫即仏なり・仏即凡夫なり」(1446P)と仰せです。成仏とは、人間に具わる本来の仏の境地を顕すことであって、
成仏といっても、人間からかけ離れた特別な存在になることではありません。凡夫そのままの身に最高の人間性を開き顕すことが大聖人の成仏観です。
このような成仏を「即身成仏」ともいいます。即身成仏とは〝身に即して仏に成る″という意味で、衆生が、九界の凡夫の身を改めることなく、
仏の境涯を得ることをいいます。
法華経以外の諸経では、「成仏」が説かれていても、少なくとも二つのことが条件とされていました。
一つは、衆生が悪人であったならば善人に生まれ変わることが必要であり、
女性であったならば男性に生まれ変わることが必要であるということです。つまり、悪人や女性が、
その身のままで成仏することはできないとされていたのです。
凡夫の身のままで
一生のうちに成仏
二つには何度も何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫りゃっこう修行)、凡夫(九界)
の境涯を脱して仏の境涯に到達するとされたことです。
結局、法華経以外の諸経では十界互具すなわち一念三千の法理が明かされないために、九界と仏界は相いれないものとされていたのです。
それに対して、法華経では十界互具が説かれることにより、成仏とは「仏という特別な存在に成る」ことではなく、自身の九界の身に
「仏界の生命を開く」ことであると説いたのです。御書には成仏の「成」について「成は開く義なり」(753P)と仰せです。
日蓮大聖人は、あらゆる仏を仏たらしめた根源の法そのものを南無妙法蓮華経として明かされました。そして、
この根源の法と一体となった大聖人御自身の御生命を南無妙法蓮華経の御本尊に顕し残されたのです。
そして、私たちはこの南無妙法蓮華経の御本尊を信受することで、だれもが自らの生命に仏界を涌現することが可能になりました。
日寛上人は次のように述べています。
「我等この本尊を借受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」
御本尊を信受し、広宣流布の実践と信心を貫けば、凡夫の身のままで、胸中に大聖人と同じ仏の生命を涌現することができるのです。
なお、凡夫の身のままで成仏できることを即身成仏、一生のうちに成仏できることを一生成仏といいますが、どちらも同じ法理を表現した言葉です。
4 煩悩即菩提・生死即涅槃
この即身成仏の法理を別な角度から表したのが「煩悩即菩提」「生死即涅槃」です。
小乗教の考え方では、凡夫は煩悩(貧・瞋・癖など、心身を悩ませる心の働き)を断じて初めて悟り(菩提)を得て成仏するとされています。
しかし、煩悩はあくまでも生命そのものに、もともと具わっている働きであり、煩悩を断じ尽くすということは現実の生命
活動を消滅させることにほかなりません。
また、権大乗教では、一応、煩悩即菩提を説きますが、九界を離れて初めて仏になると説くので、
実質的には小乗教と同じ悟りの考え方になってしまいます。いずれにしても、小乗も権大乗も、
仏とは現実世界の存在とは異なる何かであるということになってしまいます。
これに対して法華経では、凡夫のもっている煩悩を断ずることなく、直ちに仏の菩提(=悟り)が得られることが明かされました。
もちろん、この煩悩即菩提とは悩みや迷いがそのまま悟り(=菩提)に等しいということではありません。
「御義口伝」に「煩悩の薪を焼いて焼いて菩提の慧火現前するなり」(710P)とあるように、悩みを避け、逃げるのではなく、
信心を根本に煩悩に真っ向から取り組んでいくとき、煩悩を縁として悟りの智慧が現れて、煩悩をコントロールしていけるのです。
また、生死即涅槃とは、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えていけば、生死によってもたらされる苦しみの境涯にある生命に、
悟りによって得られる安穏な境涯(涅槃)を開き現していかれることを示しており、煩悩即菩提とともに即身成仏を表す法理です。
この「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の法理に立脚するとき、あらゆる苦悩を自身の成長と幸福の因に転じていく積極的な生き方が可能になるのです。
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正直言って、すごくわかりにくかったです。いろいろあるのですが、特に五オン世間と衆生世間の違いが、よくわかりません。五オンが仮に和合したものを衆生と言うのですから、五オン=衆生になるのではないのですか?五オンと衆生にあえて差別を設けることに、どのような意味があるのでしょうか?
レスが遅れて申し訳ありません。
誤解を恐れず分かりやすくしてしまえば、
衆生を構成する要素を、五陰としているわけです。
その要素は五つに分類できるが相互に関連していて、十界による違いあるとするのが五陰世間です。
五陰が和合した衆生にも、十界によって違いあるとするのが、衆生世間です。
五陰世間だけでも色心不二を表していますが、衆生世間によって統合され目に見える具体的な現象となって現れるということです。
科学的な観点でたとえれば、五陰は、細胞や血管、脳などの肉体的要素と心的作用の心と言えます。肉体的要素も心的作用のどちらも仏法では生命として捉えます。
これら全部が合わさり、統合されて一個の生命である人間が構成されているということになります。
つまり、五陰は生命の内実的な個別の捉え方で、衆生は総体的な捉え方とも言えるでしょう。
三世間というのは、差別(現代的には区別)・違いを表しています。
一般に、現象面においては、三つの違いとして受け取られます。
しかし、一念の生命という観点から見れば、それらが一体不二であるということが仏法の一念三千の哲理になります。
一体不二であることに意義があるわけです。
有情(五陰世間と衆生世間)も非情(=国土世間)も一体不二(依正不二)であり、それぞれが十界の当体であり、十界の違いが現れるとされます。
地球も一個の生命体という視点が近代になってようやく確立されてきましたが、仏法では当初からこうした生命の視点で森羅万象を捉えています。